いろいろとわからないから、大変なんだよね人間関係は…

好きな小説の一つにいじめを題材に扱ったものがある。

おとなしく毎日を過ごすことを願っていた主人公の少女がある日を境に壮絶ないじめにあうお話なんですが、

その中でとても印象的な場面があります。

卑劣な態度をとってくるいじめっ子に主人公の女の子が恥をかかされるところです。

ここで主人公の女の子は思うのです。

相手が羞恥心というものがわからないために、私が恥ずかしい思いをするのだと。

いわゆる、恥の責任転嫁について強い憤りを覚える場面です。

小説ではいじめを題材に扱っているので、わかりやすい悪意がこの責任転嫁を生んでいるのですが、

現実の社会は悪意ばかりがこの責任転嫁を生んでいるのではないように思います。

これは、べつにいじめを肯定しているわけでもなんでもないのですが、

(ちなみに、私はもといじめられっ子です。)

私は、悪意と言う、ある種の自覚がある場合、ちゃんと気が付ける人なんだと思うんですよね。

だって、わかっているんだから。

何が人を傷つけるかをわかっているんだから。

そのことについての、良い方向への改善の余地ってあると思うんですよね。

ただ、問題になるのは、こういったわかりやすい場面だけでは無いように思います。

つまり、問題なのは、わかってない場合だと思うんですよね。

無自覚な場合というやつですね。

で、こういうことってあるなあとつくづく思ってしまったのです。

無自覚と言うものは怖い。

私自身も、気を付けないといけないと思うのですが。

ようは、

あなたがわからないから、相手の顔に泥を塗っているのだよ

あなたがわからないから、相手を本気で怒らせているのだよ

というやつですね。

こういうことはある。

そうして、難しい。

人に恥をかかせてはダメだとは、多くの人が思うことだと思うけれど、

実際は難しい。

何故なら、”恥”というものは、目に見えないものだからだと思う。

だから、どうしても無自覚になってしまうこともある。

そうして、何を恥ずかしいかと思うのかはいろんな意味でその人の生きざま、あり方が出てしまうんだと思う。

そうして、価値観の違いも当然あるのだから…

だから、本当に難しい。

難しいからこそ

あなたがわからないから、相手の顔に泥を塗っているのだよ

あなたがわからないから、相手を本気で怒らせているのだよ

ということなんですよね。

ですから、難しいんですけど…

ただ、いじめを題材にした小説の場合を例にあげると、この視点が抜け落ちてるかなあと思うのです。

それは、

あなたは、相手にとってどんな立ち位置の人間ですか?

というものです。

私は、いじめにしても、多くのハラスメントはこの視点が抜け落ちているように思うのです。

まあ、ようは、相手にどこまで何を期待してるの?

っていうやつですよね。

私はこの視点はとても大切なことだと思っているのです。

何故なら、

それが、社会制というものだと思っているのです。

それが、ルールだと思っているのです。

ルールと言うものは秩序であり愛なんだと思うのです。

愛と言うものは、いろんな形があるんでしょう。

受容することや、与えることや、認めることや、許すことがわりと愛の形だと言われているように思いますが

私は、秩序だって愛の形だと思っています。

だって、ルールが無かったら世の中メチャクチャになりますからね。

たぶん、愛と言うものは

受容するだけでもなく

与えるだけでもなく

認めるだけでもなく

許すだけでもなく

秩序だけでもなく

ようは、

いろいろと見極めることとと見切りをつけることが大切なんでしょうね。

自分自身に対しても他人に対しても。

あなたは、相手にとってどんな立ち位置の人間ですか?

独りよがりになっていませんか?

そのことで、

あなたがわからないから、相手の顔に泥を塗っているのだよ

あなたがわからないから、相手を本気で怒らせているのだよ

といった状態になってはいませんか?