人間関係において”お勉強”は本当に役に立たない

今まで、見ていた世界が大きく変わったのっていつなんだろう

あれは、小学5年生のときだったのかな

”いじめ”を経験したのは。

そのときから、なんだかいろんなことにつまずくようになっていったような気がする。

人間関係にも。

自分自身にも。

”いじめ”を経験してからは、

今まで、何とも感じなかったことがものすごく気になりだした。

それは、きっと、新たな”視点”が出来たからだと思う。

見える世界が変わっていったんだと思う。

あの日を境に、今までのように、目に映る、耳に聞こえる”わかりやすいもの”を

ただ単にいいものに思えなくなった。

なんだか、それらは

私の気持ちを落ち着かせてくれるものでもあるんだけれど

私の心をものすごく不安にさせるものにもなった。

でも、当時はどうしていいのかがわからなかった。

怖がりな私は”安心したい”願望が強い。

でも、安心しようと思えば思うほど、恐れも手にしてしまう。

それは、例えば

小さな子供のときにあじわう

あたたかい愛情の中で

”この愛情が無くなったらどうしよう”

”さみしすぎて生きていけないんじゃないのかな”

といった感じの不安感とは全く違う感じの恐れの感情。

あたたかいものを失うことへの恐怖ではない。

なんか、もっとちがうかんじ。

心をどういう風にもっていったらいいのかわからないのに…

たででさえ心は不安定で何かよりどころが欲しいのに

そのよりどころはもっと不安定に思えて

ますます不安になる感じ

なんだか、いままで無邪気に安心感を覚えていたものが、急にそう思えなくなった。

ただ、周りの人は、まだまだ無邪気な様子で…

ううん、今、思うとちがうのかもね。

もしかしたら、無邪気な人もいたけど

もう、とっくに確信犯な人もいたんじゃないのかな。

無意識なのか意識的なのかわからないけど

”わかりやすいもの”に流される人間と。

確信犯で

”わかりやすいもの”の流れをつくる人間と。

もう、そのどちらにもなれない私は

”どういうふうにしたら心がしっくりくるのか”がわからないから

ただただ、不安になる。

学校の先生に相談しても、正直どうにもならない感じだった。

だって、先生の言うことなんて

道徳の時間と一緒だし

学級会と一緒だし。

道徳の時間と学級会の時間の長いバージョン。

いじめてる主犯格の女の子2人と私と先生とで話し合ったけど

役に立たないって。

そんなの、最初からわかってるよ。

いじめはなくならないし。

今度は、先生にチクられないように、これからは”うまくやる”って方法を

2人であみだすだけなんだって。

だからといって、先生が悪いわけでも無い気がする。

ただ、先生の力で何とかなるもんでもない。

そもそも

いじめてる子は何が欲しいのかな

みんなは何を欲しがっていて

何を手にしたくないんだろう

その”手にしたいもの”って

道徳の時間で教えてもらうような

優しい気持ちを持つことで、解決できることなのかな

誠実な気持ちを持つことで、解決できることなのかな

そんなものなのか?

なんかさ、

それって

食欲にかられているライオンに

かわいそうだから、うさぎを食べてはいけませんといってるだけように思える。

笑える。

無理だって。

だって、ライオンは食べなきゃ死んじゃうんだって。

人間だってそう。

お腹がすいているときにいろんな事考えないよ。

でも、相手も人間

もしかしたら

優しい気持ちを持つことは大切な事ことと定義化

することに成功したら効果があるのかもしれない

一瞬はね。

パッと見はね。

耳ざわりが良くて気持ちがいいものね。

まあ、でもそれもまた、新たないじめの始まりでしかない。

動物の目をした人間は、きっと、何度でも繰り返し

何度でもやるんだって。

そこに

優しさとか

誠実さとか

理性とか

そんなものがどれだけ役に立つんだろう

道徳の時間のお勉強がどれだけ役に立つんだろう

そんなものただの付け焼刃じゃないのかな

だって、ライオンは食欲を満たさないと死んじゃうんだから。